敬愛するエッセイスト、森田のりえさんがロサンゼルス・オレンジ郡の日本語ミニコミ誌”SWEET ORANGE”に私のことを書いてくださいましたので、当ブログでご紹介させて頂きます。恵美子

事故で息子を亡くしたその先に・・・
2007年8月3日、宮良恵美子さんは真夜中の電話に、飛び起きた。訝りながら受話器を取るとオレンジ・カウンティの病院からだった。息子が自動車事故で重態だという。そんな! だって夕方、「行って来ます」と笑顔を残して家を出たばかりだ。ラスベガスで救急救命士として働いていた関根道仁さん28歳は事故から5時間後に息を引き取った。
母親の恵美子さんは、今振り返ると息子の死から数年間、記憶がとんでしまったようで思い出せないという。茫然自失の状態から抜け出せた2010年、志半ばで逝った息子の死を悼み家族や友人の後押しで関根道仁基金「Mitch Sekine Memorial Fund」を設立した。
1948年生まれの恵美子さんは2歳のとき父親の仕事で東京へ移住。東京女子体育大学を卒業後、母校である恵泉女学園高校の体育教師になった。大学時代の友人と結婚し、二人の男に子に恵まれた。夫の家族と同居して働きながら子育てをし、老いた夫の両親の介護もあった。疲れ果ててしまった恵美子さんは1988年に離婚を決意。
お姉さんがロサンゼルスに住んでいたこともあり「アメリカ永住権の抽選」に申請し当選。1992年に13歳と18歳の息子を連れて渡米。仕事の当てはなかった。決まっていたのはグラナダヒルスに住む家とクリスチャンだった恵美子さんが通う教会だけであった。
渡米した翌年、お姉さんとふたりでノースリッジ大学の隣にあるショッピングモールで日本の家庭料理を出す「E & E Cafe」をオープンした。経験はゼロ。だが、息子たちに「僕たちに作ってくれる料理を出せばいいんだよ」と、背中を押された。ところが1994年に起きたノースリッジ大地震で自宅とレストランを被災したものの、3ヶ月後には再開できた。
13歳だった息子はUCLAを卒業し救急救命士としてラスベガスで勤務するようになっていた。息子の婚約者の両親に会うために訪日し、帰ってきたばかりである。なにもかも順調であった。ところがである。2007年8月3日夕方、ラスベガスに帰る息子を見送った数時間後に息子は事故死をしたのである。
息子に先ただれた恵美子さんは呆然自失の日々が続いた。そんな彼女にある日、
フィットネスで知り合った友人に、ふと、生きる一歩を踏み出すきっかけをもらった。当時の無料月刊誌TVフアンのエッセイにも勇気付けられた。

今やれることをやれ
――今やれることをやれ―― 天から声が降ってきた気がした。
大学時代、車の事故に3.4回遭った。それでも死ななかった。まだこの世にする事、しなければならないことがある、と思った。
息子が亡くなっても、恵美子さんのもとに息子の友だちがよく集まってきた。その人たちに「道仁」のためになにかできる事はないかと相談をもちかけた。
「僕たちが手伝うから『Mitch Sekine Memorial Fund』を設立したらどうか」
関根道仁基金の設立である。目的は、救急救命士を志す学生の育成を支援し、社会に貢献することであった。
多くの人からの寄付もいただいたが、基金集めとして恵美子さんとスタッフは、カレーライスのバザーを開き一回に約500食売り上げた。カレー・ファンド・レージングを数回開催。
2012年には息子の好きだった家庭料理の本を日米両語で出版し、販売。本の出版は大変だったが、救急救命士の育成に役立つだけでなく、スタッフの人たちと共に息子は生かされている、自分も生きがいを与えられているという感謝の思いが力となった。
恵美子さんは体育教師をしながら、食事が子供たちの心と身体を健全に育成するためにいかに大切であるかを経験から痛感していた。信念があった。ガーディナの教会で「恵美子の簡単料理教室」を毎月一度開いた。
出来上がった料理を試食しながら料理のコツや悩みなどを話し、楽しく有意義な時間をもった。こうして息子が亡くなった悲しみのどん底から抜け出すことができたのである。
活動を通して集まった基金はUCLA Paramedic Education Program で私費で学ぶ学生を対象にした奨学金にした。運営委員会が厳正に審査し、毎年9月、1月、5月にそれぞれ一年のコースで各1名に奨学金を出した。

基金立ち上げから11年経った現在、20名の学生が奨学金を受け救急救命士として巣立っていった。中には指導員になった人もいる。恵美子さんは、自分の頭がシャープなときに身を引こう。
後継者も育った。もうひとり歩きが出来る。最後に救急車モデルルームを寄贈して、基金の活動を終了した。笑顔で語り終えた恵美子さんは、心なしか目をうるませて云った。
「息子はいま旅をしているの、亡くなったとは思ってないのよ」
森田のりえ記

